リー優子 さん
J美容クリニック代表
ハイサクセスコンサルティング会社代表
ハイサクセスエステート不動産会社代表
Y’s Style 株式会社代表
ポジティブに考えてチャレンジあるのみ
ハワイでひときわ存在感を放ち、事業で大成功を収め、ハワイだけでなく日本在住の多くの方から支持を得ている優子さん。多くの困難を乗り越え、3人の子育てをしながら様々な可能性にチャレンジしてきたからこそ掴んだ今の生活。生い立ちから結婚、ハワイ移住、そして現在の4社経営に至るまで彼女のパワフルでハッピーな生き方の秘訣をうかがいました。
【アイドルになりたい!】
— 福岡での子供時代、小さい頃の優子さんは?
きっと私のことを知る人は、今の私とぜんぜん変わってないね、と言うでしょうね。自分では普通の子だと思っているけど、いつも夢みたいなことを考えている子でした。アイドルに憧れてピンクレディーやおニャン子クラブまでアイドル全盛の時代を見て、自分もいける!と本気で考えていました。
私は5人家族で狭い団地に住んでいたのですが、当時のアイドルは貧乏なお家の出身が多くて、真剣に自分もアイドルになって家族を助けようと思っていましたね。3人兄弟で姉と兄、私は末っ子。結束力が強くてすごく仲が良かったですね。特に8歳離れている姉から可愛がられていました。おかげで小さい時からいろいろな所に一緒に連れて行ってもらいました。姉は有名な私学に通っていたので周りはお金持ちのお嬢様ばかりでしたし、早くからいろんな事に興味を持つ大人びた子供だったと思います。
学生時代は暗記が得意でテストの点は良かった方ですね。周りにまったく動じない、やりたい事をやる、嫌な事はやらない、はっきりした子でした。気の合わない先生は無視しちゃうような本当に気の強い子でしたね。
— 憧れていた「芸能界」、現実はどうでしたか?
子供の時は絶対にアイドルになれるって思っていました(笑)。よく家のベランダをステージにして、大勢の自分のファンが下から見てくれていると思いながら歌っていましたね。高校からオーディションを受け始めて、少しずつ仕事をもらっていました。でも17歳の時に、芸能界の厳しさを知ってしまいました。上からの圧力で売れる為には何でもやりなさいというような…。拒絶した末に、最後にこう言われました。「おまえくらいのかわいい子なんて世の中には山ほどいるし代りの人間はいくらでもいる。あとはガッツがあるかどうかだ」と。事務所の同世代の子からも馬鹿にされ、泣きましたね。人生で最初の挫折だったのかな、と思います。
でも完全に芸能界を諦めることはできなかったですね。時代がバブルまっさかりで、仕事はいくらでもあるし、周りは誘惑だらけでしたから。高校卒業後、スカウトされてモデル事務所に所属して仕事をしていました。 普通のOLさんよりはいいお給料をもらえていたし、何よりも人から決められたことに縛られるのが苦手だったので満足はしていたんですけど、拘束時間が長くて…。自分が心地良いかどうかだけで行動する私は、嫌な時は途中で仕事を投げ出したりもしたので、周りにはずいぶん迷惑をかけてしまったなと思います。それでも仕事は次々来てしまう、そんな時代でした。
実は学校の先生になる為に大学受験もしていました。なぜか子供の時に祖父が「学校の先生になったら50万円やるぞ」と私に言ったから(笑)。先生になってほしかったのかもしれませんね。でも受験準備期間も短くて1年目は落ちてしまい、その後浪人生活をするんですが、モデルの仕事をしながらでしたし、あまり勉強もしなかったので2年目も受かりませんでした。
今さら勉強して先生になれるとも思えないし、大学進学は諦めました。
— モデル時代の両親との関係は?
三人とも小さい頃から好き勝手していたので両親は大変だったと思います。私は父からとても可愛がられていました。初めて無断外泊した時はものすごく怒って殴られましたけど、それからは私が外で何をしようと怒らなくなりました。 私は押さえつけられたらダメになる人間だと解ってくれていたから。あの時が父の最後のしつけだったのかな、と思います。
モデルをやっていたこともあり派手な遊びもしていましたから、もちろん危険な事が沢山ありましたね。一番思い出深いのは、当時付き合っていた彼と海外へ遊びに行った時、大喧嘩になって「先に日本へ帰る!」と言って本気で帰ろうとしたことがあるんですけど、パスポートがホテルに預けられていて返してくれなくて。軟禁状態で怖かったですよ。ホテルの部屋の前が海だったので私はこの人から逃げられるか、この海で死ぬのか…みたいなことを考えたくらいです(笑)。 結局、モデルを4年程続けましたけど、何も深く考えずにただ楽しいと思うことだけでやっていたように思います。
その後26歳で結婚をしましたが、27歳で長女を出産するまで本当に自分の好きなようにわがままに、お気楽に生きていましたね。さぞかし両親は心配だっただろうなと思います。