哺乳類の受精研究のパイオニアであり、1997年には世界初のクローンマウス作製に成功。現在の不妊治療の理論や技術のさきがけとなった生物学者。周りから笑われても「馬鹿げていることが好き。人と同じことをしたくない」と研究を進めたことが結果につながる。「周囲を気にしなくていい」というメッセージを次世代へ送り、stupidでいることを大切に、今も大好きな研究にいそしむ、輝く人。
(このインタビューは日刊サンに2014年3月に掲載されたものです)
大切なのはstupidであること
柳町 隆造(ヤナギマチ・リュウゾウ)
1928年北海道生まれ。1952年北海道大学理学部動物学科卒業。1960年同大学理学博士。同年、アメリカのウースター財団実験生物学研究所で、M.C.チャン博士の研究室に博士研究員として採用される。1964年、一旦帰国。1966年にハワイ大学医学部助教授として採用。さらに教授へ。2001年、全米科学アカデミー会員に選出。2004年に引退し、名誉教授となる。
カエルの卵を採って夢中で育てた小学校時代
1928年に北海道の江別で生まれました。祖父の時代に新潟から来たのです。祖父は子どものときに侍で、明治維新後にその身分がなくなったため、新潟の長岡藩から北海道に移ったそうです。このときにブラジルに行った人もいれば、ハワイに渡った人もいます。それまでは、北海道は寒くて日本人はほとんど住んでいなかったようです。
札幌の近くにある江別は、石狩川によって物資が集中した場所で、祖父は商売をはじめました。侍から問屋になったのです。親戚も全員商売人で、家に来てはみんなお金儲けの話ばかり。それを聞いて、子どもながらに「お金がすべてじゃない」と思ったものです。もし家族が金銭的に困って夜逃げでもしていたら、私はお金の鬼になっていたかもしれませんね。
5歳上の兄がいて、多趣味の兄の後ろをくっついて歩いたり、真似をしたりしていました。小学校3~4年生のときに、兄と兄の友達が近くの山に連れて行ってくれたことがありました。北海道は冬が長いので春が待ち遠しかったです。カエルやサンショウウオの卵を採りに行ったのです。カエルの卵を持ち帰り、それがだんだん大きくなって、オタマジャクシになりました。何を食べているのかと思って山に行ってみると枯れ草のようなものを食べていたので、ほうれん草を煮てあげたらそれを食べて大きくなったのです。
翌年には、兄の興味は別のところに行っていましたが、私は1人で山に行きました。オタマジャクシの飼い方が上手になって、最後にはカエルになりましたよ。夏には同じ山に行って、兄が昆虫採集を教えてくれました。私はまたそれに夢中になりました。
兄がいなかったらそういう経験もなく、おそらく自然や生物に興味を持たなかったと思います。
第2次世界大戦が終わり、別の世界を知った
1941年、中学1年生(13歳)のときに日本とアメリカで戦争がはじまりました。4年後に終戦を迎えたので、中学時代はすべて戦争下でした。
その前には中国との戦争もあり、子ども心にも気づいたときから日本は戦争をしている印象でした。日本のため、天皇陛下のためになることが名誉という教育を受け、死ぬのは当たり前と思っていた、そんな時代でしたね。小学生のころは生物に興味がありましたが、第2次大戦が起きてそれどころではなくなりました。
戦争で死ぬと思っていたのに18歳で終戦。これからどうしようかと思案しました。家族親戚は商人という中で、唯一の理科系だった母方の叔父がいて、彼とよく話をしていました。そのときに彼が「これからの日本は土木と弱電(エレクトロニック)」と言ったのです。私はビリビリする電気に弱かったため、土木を選び、北海道大学の土木専門学校(現:室蘭工業大学)に進学しました。
はじめの1年はおもしろかったのですが、そのうちずっと続けるべきか考えるようになりました。あのころの土木は字のごとく土と木で、土を運んだりしていました。それは屈強な男たちとすることで、小柄な私にはちょっとできそうもないなぁと感じていたのです。
一生は一度しかないから好きなことをやりたいと思い、昆虫を集めたりしたことを思い出しました。戦争中に死ぬと思って、山に行って虫を見たり、花が咲いているのを見たり、寝転がって青空を眺めたり。やはり自然がぴったりくるのです。親が芝居に連れて行ってくれたりしましたが、人間が作ったものはあまり美しいと思いませんでした。それよりも夕方の空の方が美しかった。生物、自然が好きだなと確信したのです。
とはいえ、それまで学校で生物をきちんと勉強をしたことはありませんでした。兄の友達のお兄さんに北海道大学の動物学の大学院の人がいて、彼に相談したところ、ある本を貸してくれたのです。今でいう高等学校の教科書みたいなものでした。生物学を勉強して、初めて我々の体が細胞でできていることを習いました。それまで人間の体は肉と骨でできていると思っていましたから「おもしろい!」と思いましたね。動物の発生の項目はカエルの発生が例になっていたので、それは自分の眼で見ていたからすぐわかりました。教科書より私の方が詳しかったですね。
結局、土木の専門学校では3年間勉強をして橋の設計をしたりしながら、その生物の本を3回か4回くらい読んで、全部暗記しました。卒業後、ほとんどの友達は土木関係に進んだのですが、私は北海道大学理学部を受けて、合格しました。1950年から53年まで、動物学科を専攻しました。変わった経歴を持った学生でしたね。随分あとの話ですが、1996年に天皇陛下に国際生物学賞をいただいたときに、中学時代に私と成績がどっこいどっこいだった親友の1人から電話があり「私の名前を新聞で見たけれど本当にお前なのか」と驚かれたことがあるほどです。
1996年に受章した国際生物学賞を手に
研究に没頭する日々
学生のときにいろいろな学説を習いましたが、1930年くらいに書かれた細胞学の名著のイントロダクションに「我々のキャラクターは親の体から受け継いだのではなく、親の生殖細胞からもらった。遺伝に関する限り、体は生殖細胞の運搬屋に過ぎない」というようなことが書いてあり、生物で一番大切なのは生殖細胞だと知ったのです。もし生殖細胞がなかったら生物は一代かぎり。生物は続くからよいのです。一代きりならまったくつまらない。これはおもしろい!と思いました。
さらに、学生実習でウニの授精と発生を顕微鏡で観察しました。そのとき初めて卵子が受精して、目の前でどんどん新しい命が発育しているのを見て感動しました。
卒業論文の研究テーマは発生学を選ぼうと決めました。昔は大学は3年制で、最初の2年は講義、最後の1年は研究をして卒業という流れでした。発生学の先生に「ニシンの受精・発生」の研究というテーマをもらいました。1950年ごろ、北海道ではニシンが何百万トン獲れた時代です。漁師の家に泊まり込みで研究を行うことになり、顕微鏡と実験道具、布団を背負って、ストーブのない部屋で4月の丸1カ月間を過ごしました。
その研究が一段落してから、次は甲殻類の「フジツボの寄生性」について研究をしました。それが当たって、ニシンとフジツボで理学博士の学位を取りました。
できれば水産関係などで研究をしたいと思っていたのですが、当時は大学の数が少なく、就職の選択肢が少ない時代で、教授の薦めで札幌市内の高校の先生になりました。でも、研究を諦めきれなくて身が入らず、生徒に悪いと思い、1年間で辞めました。
哺乳動物の受精を研究するために渡米
このまま日本にいたのでは研究職につけないのではないかと思いました。魚を使っての研究もよいけれど、ヒトを含めて哺乳動物を使った研究をしたいと思ったのです。当時、哺乳動物の受精、生殖はあまり研究されていませんでした。将来この方面の研究は大事になると確信したのもこのころです。
しかし、日本ではほとんど誰も研究していないので、世界の文献を見ると3人の名前が出てきました。その中の1人でアメリカのM.C.チャン博士を知りました。イギリスのケンブリッジ大学で学位を取得したあと、アメリカに移って哺乳動物で卵子と精子の実験をしていた、当時ではめずらしい人でした。
思いきって彼に手紙を書きました。
「大学で魚と甲殻類の勉強をしていて、卒業したらあなたの博士研究員として哺乳動物の研究をしたい。博士研究員で採ってくれませんか」と。返事を期待していなかったのですが、2カ月後くらいに「論文を送るように」と連絡が来たのです。魚などの論文をいくつか送ったところ、1カ月くらいしてから「OK」という返事が来ました。しかも給料付きで。1年で3500ドルくらいだったかな。当時の日本の大学教授の給料の3倍相当の金額でした。
こうして1960年にアメリカのマサチューセッツ州にあるウースター実験生物学研究所に行きました。1ドル360円の時代です。アメリカではみんなが車を持っていて驚きました。北海道大学では、学長のためにアメリカの中古車が1台。一般家庭には冷蔵庫、エアコンもなかった時代です。1年前に結婚をしていましたが、妻のアメリカ行きの旅費がなく、ウースター研究所での給料を貯めて半年後にウースターに来てもらいました。
チャン博士の研究室では、私は日本人として初めての博士研究員でした。アメリカに来るのはこれが最初で最後と思ったので、週末はよく遊びに行っていましたね。4年の間に論文は6~7つしか書きませんでした。これは少ないですよ。よくクビにならなかったものです。
チャン博士は哺乳類の体外受精を(ウサギで)成功させた最初の人です。ロバート・G・エドワーズ博士の人工授精開発にノーベル賞なら、故チャン博士も当然受賞資格があったと思います。彼以前には誰も体外受精に成功していなかったのですから。早く亡くなりすぎてしまった。
私のウースターでの最後の年1964年に、精子が卵子に入る瞬間を捕まえました。それまでは哺乳動物でそれを見た人はいませんでした。それをまとめてチャン博士に原稿を持っていったら喜んでくれましたよ。論文の最初の段階では「柳町・チャン」と名前が載っていたのですが、彼は最後の段階で自分の名前を消し、著者は私ひとりの名前になりました。これからは自分1人でやるようにというメッセージだったのです。彼は私に細かいことは何も言いませんでしたが、よい質問・疑問を持つことが大切ということを教えてくれました。
彼が1991年に82歳で亡くなる数年前に奥さんとハワイに旅行に来たときに、「なぜ私を日本人で、しかも哺乳動物の研究経験がないのに採用してくれたのか」と聞いてみました。ずっと不思議に思っていたのです。すると「お前は魚を使ってよい研究をしていたからだ」と答えてくれました。もしそのときに「お前のやっていることに興味がない」と言ったらそれまででした。どうなるかわからない男に、彼はひとつのギャンブルをしてくれたのです。
1997年に誕生したクローンマウスの1歳の誕生日のときの足型
ハワイだったからゼロ地点からスタートできた
ウースター実験生物学研究所での4年間の研究生活を終えて、36歳のときに帰国しました。その前に北海道大学の教授に「日本に戻ってくれば助手(助教授)のポジションがあるかもしれない」と言われました。その後もう1人候補の人が出てきたそうで、その教授が言うには投票では決まらなかったので、最終的にはジャンケンで決め、「お前は負けた」と。えらい国に帰ってきたなと思いましたよ。
そのうちにアメリカ滞在中に知り合ったバンドビル大学の産婦人科の教授、R.ノイス博士から「ハワイ大学に新設される医学部の副学部長として赴任するから、もし興味があるならハワイに来ないか」と誘いを受けました。「はい」と二つ返事でハワイに行きました。捨てる神あれば拾う神ありです(笑)。
ハワイ(アメリカ)では、教授でも助教授でも研究に関してはみんな同じ列に並べます。助教授でもボスになって、研究費を自分でとって、教授よりもたくさん人を使って構わないのです。失敗しても成功しても自分の責任です。
ハワイ大学は、アメリカ本土の裕福な大学と違い、あまり金銭的補助はありませんが、私をゼロの地点においてくれました。日本はこのゼロに達するまでに大きなエネルギー使ってしまう。人間というのはおもしろくて100%のエネルギーを使うと満足するのです。私はゼロに達するためのエネルギーを使わないで済みました。
ハワイに来たのが1966年38歳のときで、はじめ、我々のグループはカピオラニ病院の2階を間借りしていました。マノアに来たのは2年後です。医学部が創設されたときから2004年の引退まで、そして今もハワイ大学の研究室にいるので、48年間ハワイにいることになります。途中でハワイの外に出るチャンスもあり、考えたこともありましたが、やはりハワイでしたね。この医学部が好きですからね。気候もよく、ハワイでリタイヤできるなんて最高です。
クローンマウスがハワイ大学の医学部を救った!?
1997年に哺乳動物で最初の体細胞クローンが羊で成功しました。羊はクローンが難しく、一匹しかできなかったため、誰も追試できなかったのです。本当かどうか疑う人も出てきました。そんな中、同じ97年にマウスの体細胞クローンを誕生させました。2番目のクローンです。大きく取り上げられて、ニューヨークタイムズやタイムマガジンのニュース面にも載ったりしました。
ちょうどそのころ、ハワイの景気は悪く、ハワイ大学の医学部がコストを使いすぎだ、医学部を閉鎖すべきだとも言われていました。このクローンマウスの誕生でそのような話はなくなり、医学部にInstitute for Biogenesis Researchが新築され、それまでは窓のない倉庫を改造した場所にあった研究室がこの建物に移動しました。クローンマウスが生まれなかったらハワイ大学の医学部がなくなっていたかもしれないですね。このマウスが医学部を救ったのかもしれません。
クローンマウス誕生後、2000年に建てられた Institute for Biogenesis Research
周りに笑われても「みんなは気づいていないだけ」
stupidであることが大切だと思っています。馬鹿げていることを考えているから、はじめはみんなに笑われましたよ。哺乳動物の研究をはじめると言ったら、「あんな難しい材料でやるなんてバカじゃないか」と言われました。
顕微授精といって、精子を一匹ピックアップして卵の中に入れる。哺乳動物の精子は精巣でできた状態では受精力がなく、雌の身体の中に入って生理的な変化を起こして初めて受精能力を獲得する。これは哺乳動物のユニークな現象です。ですが、核そのものはちゃんと受精の準備ができているのではないかと思いました。それを確かめるには卵に精子を入れたらどうなのかと思ったのです。
ほとんどの人から我々は変なことをやっていると思われていましたが、20~30年経って人間に応用できるということがわかり、不妊治療の強力な手段として用いられるようになりました。
stupidなことが好きなのです。何を言われても「みんな気づいていない。いつかは大事なことになる」と思っていました。私の発案の10のうちの8つは間違いでしたが、2つは当たっていましたよ。
だから若い人に言うのです。特に女性は人に笑われるのが嫌でしょう?みんなが笑っていてもみんな気づいてないだけ、今は知らないだけって思えばいい。8の失敗がなければ2の大成功はありません。
目標は400の論文
学者は論文を書いて、それが世界中の人が読めるようになってはじめてその仕事が終わると考えます。研究をしてデータを取っただけではその研究は終わっていません。ローカルの新聞ではなく、世界中に分散するようなジャーナルに出すことが必要です。
私が最初に書いた論文は1953年に日本語で書いたものです。最近のもののひとつに魚と昆虫授精に関わる論文があります。昔、魚の受精の研究をしていたのを思い出して、また魚の研究をはじめたのです。もちろん哺乳動物の研究も続けていますよ。
今年85歳で体力もなくなってきたので、自分でできることをトライしています。メインランドに行ったり、日本に行ったりして実験させてもらっています。私はゴルフをするわけでもなく、「研究は趣味」と言っては悪いけれど研究が好きなんですね。今年の春には、北海道に行ってニシンとカレイの授精の研究や哺乳動物の研究をしようと思っています。
今考えると60~70歳の10年間が一番脂がのっていて、1年に14くらい論文を書いていましたね。もちろん数だけがすべてではありませんよ。これまで出した論文の数は392です。まだ哺乳動物の研究でやり残したこともありますからね。少なくとも400になるまで頑張ろうと思っています。
ライター:大沢 陽子(日刊サン 2014. 3. 8)