ロシアからハワイに来た23年前は全く英語が話 せず、まずはカーペット掃除からスタート。英語と日本語を独学で学び、日・英・露3カ国語のツアーガイドとなり, 「ALEX ALOHA TOUR」を立ち上げ る。ハワイの自然や歴史、そして世界から見た日本の歴史を伝え、本当のハワイをガイドする8時間半のオアフ島1周ツアーは、 多くの日本人観光客の人気を博している。『私の言葉に“できない”はない。2回、3回…5回、そして10回トライして続け ていけば、絶対できるよ。」と、たくさんの努力と諦めない気持ちが彼をカリスマハワイ観光ガイドヘと導いた。
ライター:みなみようこ
「できない」という言葉は使わない
日本人より日本に詳しいロシア人ガイド
ハワイに来たときは全く英語が話せずゼロからスタート
ロシアで生まれ育ちました。8歳の時に 母を亡くした後、男5人兄弟の4番目の自 分が一家の母親代わりとして、ご飯を作って洗濯して、掃除をしていました。夏休みは ビール工場でアルバイトもしました。当時の時給は1時間に5ドルだったのを覚えています。
本を読むのが大好きで、家事の合間に、兄の大学の教科書を読んでいたんです。そのせいか、学校の授業が簡単に思えて、よ く先生に 「遊びに行ってきていい。」と言われていました。
一般的には18歳で軍人に なって、それが終わってから大学に行くのですが、私はその前に大学で勉強したい、そして20歳までに偉い人になる!と決めていました。そして、アーリーエントリーにトラ イして 15歳で大学に入学しました。
18歳で大学を卒業した後に軍人になりました。スナイパーとしてシューティングのプロ フェッショナルライセンスを取り、いわゆるエリート軍人として部隊を率いていました。
20歳になって、軍を辞めたときには父が亡くなっていたので、「もう失うものはない」と思ったんです。その時、違う国に行こうと決めました。周りからは「ロシア語しか話せ ないのに、無理だ。」と笑われました。
その後、船の学校に行き、船の仕事でノルウェーやアルジェリア、アルゼンチン、ブラジルなど世界を周ったんです。そして、ハワイ も船の仕事で来たのが最初でした。 ハワイの大学に入って勉強をしたかった のですが、そのときは英語も話せませんでした。唯一の知っている英語は 「 BIG(大きい)」だけ。
帰りたいとも思ったのですが、ふと汚れていたカーペットを見て、それを掃 除するのなら言葉が話せなくてもできると思い、カーペットの掃除の会社で働くこと にしました。そして仕事をしながら、英語の勉強をしました。
カーペットの掃除の会社に勤めているう ちに、ほとんどのお客さんが私を指名するようになりました。他の人たちはお喋りをしてばかりで仕事に 取り掛かるのが遅 かったんです。 「仕事をしてからお喋りをしよう。」と言ったのですが、なかなか理解してもらえませんでした。
私がその時 に思っていたのは 「22歳でベンツに乗りたい。家が欲しい。」ということです。言葉はわからなかったけれど、その目標に 向かって、とにかくカーペット掃除をがんば りました。同時に、ロシア語を生かして、語 学学校でロシア語の先生もしていました。
私のクラスは厳しいですよ。お喋りは絶対 に許しませんでした。学校は勉強をしに来 るところ。 「私は先生であなたは生徒。だか らしっかり授業を聞きなさい」と。でも授業 が終わればみんな仲良し。そんなメリハリのある生活をしていました。
そのうちカーペット掃除の会社から独立 を考えるようになり、仕事をしながら3~ 4ヶ月で掃除の仕方や掃除マシンのこと、会社のマーケティングなどビジネス全般を 学びました。そしてカーペット掃除の会社を作ったんです。
珍しいと思ってもらえるように、名刺には ソ連時代の国旗のマークを入れて、カラカ ウア通りの端から端まで配って歩きまし た。いいマシンを買うお金を稼ぐために、英 語を使わずに働ける仕事を探し、アラス力 でカニやサーモンを釣る仕事に行ったりしました。
そうしているうちに徐々に依頼が 来るようになってお客さんが増えていった んです。 その後、テレビやビジネスマガジンなどで何度か、ハワイのロシア人経営者としてイ ンタビュ一を受けましたが、「なぜ成功し たか?」と聞かれるたびに 「毎日ビーチに行 かなかったからです。」と答えました。
遊ぶ 前にしっかり働いて、まずは考える。ゆっく り習ってからスタートする。この順番が成功の秘訣だと感じています。 ハ ワイに住むロシア人に仕事をあげたこともありました。カーペットの掃除で、21年 前当時で1時間20ドル。さすがに経営が厳しいので自分の給料分を渡していました。
「頑張っている人を助ける。」これは私が決 めていることのひとつです。
ある日突然日本語を話して驚かれました「できない」という言菓は使いません
ハワイの日系人の割合は高いものの、当時 日本語を話せる人が少なかったので日本語 を習っで観光の会社を立ち上げたいと思う ようになったんです。この時も周りのみんなは 笑いました。日本にも行ったことはない上、も ちろん日本語も全く話せなかったので。
でも、今までの人生でもそうでしたが、私の言葉に 「できない」はありません。2回、3回、5回トラ イして、10回トライする。そうすれば絶対できるんです。 それから日本語の勉強をはじめました。すべて独学でした。出会う日本人に質問をして教えてもらったんです。
当時、ダイヤモンドヘ ッドの方に住んでいたので、カラカウア通りまで歩きながら、電柱の数を数えて数字を覚 えました。1,2,3・・・ 「4」は 「よん」と言う人と 「し」と言う人がいたので難しかったです。五十音は 「あいうえお、かきくけこ」とギターを弾きながら、歌にして覚えました。
文字は、力 イマナビーチで砂に書いて勉強しました。ひ らがなとカタカナで 「あいうえお」 「アイウ工 オ」と書いていると、日本人のおじいちゃんやおばあちゃんが驚いてよく話しかけてくれました。そこで、わからないことを聞いたりした んです。
そうしているうちに、ワイキキにある看板の文字、 「ラーメン」や 「さわやか」など、ひら がなやカタカナが読めるようになったんで す。勉強がとても楽しかったですね。
そのほかはカラオケで学びました。松田聖子さんや今井美樹さん、山口百恵さんの歌を よく聞きました。テレサ・テンさんも好きでし た。誰かが歌っているときに、その歌詞を書 いて勉強するんです。車の中でも日本の歌を ずっと聞いていて、わからない意味は調べて いました。
家ではビデオを何度も何度も見て いたので、振りつけも覚えてしまいました (笑)。そうして1年。ある日、日本人の友達と カラオケに行った後に 「さぁ次はどこへ行こ うか!」と突然日本語を話したら、彼らはかな り驚いていました。
ちなみに歌で勉強したことは、今もとても役に立っています。観光ツアーで車からお客 さんが降りた時に 「ちよっと待って。プレイバ ック、プレイバック」。騒がしくなってしまった ときは「バカにしないでよ!」と(笑)。