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インタビュー

【インタビュー輝く人】ソムリエ 田崎真也さん

サービス業に目覚め、弱点克服のためにフランスヘ

高校を辞めた後に割烹の板前をしましたが、自分に合わないので辞めて、結婚式場の調理場に入りました。そこでよく考えてみると、料理を作ることが嬉しかったのではなくて、「ごちそうさま。ありがとう」と帰って行かれるお客様と のコミュニケー ションの瞬間がよかったということに気付いて、サービスの仕事に変わろうと決めました。 その頃は、男子が想い浮かべる飲食業というと板前と考える時代でした。

 

フランス料理はほとんどなく、まして10代ではフ ランス料理という発想もありませんでした。料理の世界に入ってから、フランス料理はサービスをするのが男性だというこ とを知り、これならできるかなと思ってフラ ンス料理を目指すようになり、サービスの仕事に就きました。

 

サ ービスを極めようと思って入ったのが、銀座のレストラン 「ローマイヤ」です。その店ですばらしいサービスをする人たちと出会いサービス業に目覚めて、将来の仕事にしようと決めました。同時に、自分で今一番弱いところはワインだと感じました。

 

料理は好きだったのでそれまでに勉強していましたが、まだ 10代だったこともありワインは身近なものではなく、自宅で両親が飲んでいるわけでもなく、とにかくワインを覚えるのが大変でした。どうすればワインを覚えられるだろうと考えた末、フランスに行くしかないと思いました。当時は海外に行くということが現実的では ない時代で、例えばハワイに旅行するのも、親戚ー同が空港に見送りに来るくらい大変なことだったので、父も含めて周りからは理解してもらえませんでした。

 

そのような状況もあり、フランスに行くしかないと決めながらも、それはずっと先の話になると思っていましたが、職場で尊敬していた先輩が新婚旅行でフランスに行くことになったんです。それを聞いて、こ れは今自分も行かなければ取り残される、その先輩に実力を離されると感じ、フラ ンスに行こうと決心しました。

 

そして、勤めていたレストラン 「ローマイ ヤ」と高級フランスレストランでのソムリエの見習いを辞めて、お金を貯めるために配膳人紹介所で結婚式場などで働く仕事をしました。時給で稼げるところだったので、 1日に15~16時間働いて、それまで l ヶ月に3~4万円だった収入を20万円に増やして半 年で100万円を貯めました。今から 40年近く前のことですからその頃の100万円はかなりの金額でした。

 

目標を定めたら、できるだけ早い時期に達成したいと思っていました。長く時間をかけるのが好きではなかったんです。そのための手法としてどうするかを考えた方が早いですよね。修行の時間は短い方がいいと昔から思っていました。ただ日本の考え方としては一般的にはそうではありません。それが理由で板前を辞めましたから。

 

一人前になるのに、包丁を持たせてから10年かかると言われ、あり得ないと思いました。時間じゃないんです。今は後輩たちに 「経験というのは時間ではなくて、何をしたかが経験だ」と言っています。

 

 

全国ソムリエ最高技術賞コンクールで優勝。人生が変わりました

フランスに行ったのは19歳の夏でした。見るものすべてが勉強だと思いました。楽しくて仕方がありませんでしたね。当時は、サービスの勉強をするためにフランスに来ている人はほとんどいませんでしたから、あれもこれも覚えて帰ろうと。日本に帰ったらすごいことになると感じていました。

 

それから、何かタイトル取ろうと思って、ワインスクールに入り、ソムリエ科を卒業して日本に戻って来ました。 日本に帰って来た年は、日本で初めてのソムリ工のコンクールがあった年でした。ち ょうど終わった後のタイミングだったので、次の年に出ようと決めて勉強を始めました。

 

そして第2回目のコンクールで、筆記試験に受かって、準決勝まで進んだのですが、準決勝では全くダメだったんです。それが悔しくて、コンクールに目覚めて、第3回目のコンクールで優勝しました。 25歳で突然優勝したので自分自身も驚きました。優勝した後は人生が変わりました。

 

私の場合、特にホテルに勤めていたわけでもなく、ソムリエ業界にいたわけでもなく、無名の若者でした。しかも日本料理の店にいた時だったんです。こ れからも日本人のお客様にサービスを続けるなら、日本料理のことや日本のサーピスを知る必要があると感じて、茶道や華道など日本のこ とをもっと知ろうと思い、日本料理店に移 って2ヶ月後に優勝したんです。

 

日本料理店のソムリエが25歳の若さで優勝したという ことでメディアの注目度はかなり高く、毎日取材を受けていました。 ソムリエになろうと思ったのはそれからのことで、それまでは、サービスとしてワイ ンも兼ねてやっていたという感じでした。

 

当時はソムリエというセクションを置いている店は一部のホテルのレストランくらいしかなかったので、特にソムリエになろうとは思っていませんでした。日本で最も高級なフレンチの総支配人をイメー ジしていました。コンクールは競技として興味を持っていたのですが、優勝して初めてソムリエというタイトルで仕事をしてもいいかな、名刺にソムリエとだけ書いてあってもいいかなと思い始めました。

 

そんな矢先に、フランスで世界コンクールの優勝者と会ったんです。そこでレベルの差に気が付きました。日本で、25歳で鼻高々とソムリエといっていたのが1年で崩され、これはもう世界を目指すしかない、ソムリエでいくのなら次は世界だと思いました。それが26歳の時でした。

 

その後、世界最優秀ソムリエコンクール で優勝したのは37歳です。それまで の11 年間はずっと世界コンクールでした。どのくらいハードかといえば、5キロダイエットするのと同じくらい(笑)大変です。目標を達成できないのは、途中で妥協するからなんです。でも一度5キロダイエットを達成して痩せると、痩せた後の方が気持ちがいいので次も頑張れる。

 

おそらく、達成感を感じた人しかできないと思うのですが、達成感の方をイメー ジとして大きく持つので、プロセスは我慢できるものなのです。私の場合は 25歳で日本のソムリエのコンクールで優 勝したので、優勝した時の開放感や優勝とコールされた瞬間の感動があったから、11年間続けられました。世界で優勝したらも っとすこいだろうと思っていましたから。

 

私が世界コンクールで優勝するまで の過去4回はずっとフランス人が優勝していました。フランス人が優勝するのは、昔の日本の柔道のようなもので、日本のものなのだから日本人が優勝するのが当然だという感じでした。2位が誰なのか、どこの国なのかという中で突然、イタリアでもなく、スペ インでもなく、ドイツでもなく、日本人の私が優勝したという状況でした。

 

実は、世界大会で優勝した瞬間は意外と冷静でした。公開審査なので見ていた方たちが 「結構いいところに行くよ」と言ってくれ、3位に入ったらいいかなと思っていました。でも3位に他の人が呼ばれ、2位という ことはないだろうと、これで終わりかなと思 ったのですが、2位には優勝候補者が呼ばれたんです。これはもしかしたら?!でもそんなはずはないと思っていました。

 

その時にコ ールする人が私の目を見たので、「あ、呼ばれるな」と思った瞬間に、ガッツポーズを両手にするか片手にするかと考えていました。それくらい余裕があったというか、本当に短い、1秒もない時間がスローに感じました。結局両手でガッッポーズをしました(笑)。

 

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