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デジタル版・新聞

インタビュー

「下手っぴだけどおもしろいバンドだと思った」ビクターディレクター高垣健さんインタビュー

プライベートでは初めてのハワイという高垣さん。ハレクラニの「ハウス・ウィズアウト・ア・キー」で音楽とフラショーを楽しんだ

 

 

サザンオールスターズを発掘した ビクターの高垣さんを直撃!

1978年6月25日に、ビクター音楽産業(現ビクターエンタテインメント)からシングル「勝手にシンドバッド」でデビューしたサザンオールスターズ。40年前、青山学院大学の音楽サークルで純粋に音楽を楽しんでいたバンドは、ビクターのディレクターであった高垣健さんに発掘され、やがて日本の音楽業界の金字塔となった。なぜ彼らだったのか? 彼らのデビュー秘話を高垣さんに聞いた。

 

サザンオールスターズとの出会い

きっかけは1つのカセットテープだったんです。もともと私はビクター音楽産業(以下ビクター)で、スティービー・ワンダーやジャクソン5などの洋楽ロックの宣伝を担当していたのですが、その中で日本のロックのレーベルを作ろうということになったんです。それでディレクターとして新人リサーチをしている時に、ヤマハに勤めていた友人から「おもしろいバンドがコンクールに出るよ」と言って渡されたのがそのカセットテープでした。

聞いた時に「下手っぴだけど、おもしろいバンドだなぁ」と思ったのが最初の印象です。それで見に行ったのが、1977年のヤマハ主催の音楽コンテスト「EastWest」。まだ彼らが青山学院大学の音楽サークルで活動していた頃の話ですよ。やっていることはブルースで渋い音楽なんだけど、ステージはキャッチーでした。コミックなダンスミュージックの次に、ワルツのマイナーなバラードをやってみたりね。元気でおもしろいバンドだと思いました。

そのコンテストの結果は優勝ではなかったんですが、桑田くんがベストボーカル賞を受賞しました。

 

記念として1枚だけアルバムを出そう

まったくの学生バンドだったので、渋谷の「ジァンジァン」というライブハウスに出演したりしましたが、お客さんは10人もいませんでした。ミーティングと称して毎晩のように原宿の居酒屋「村さ来」に飲みに行って、酔っ払った彼らがよく私の家に泊まりに来ていましたよ。

当時は売れるかどうかなんてわかりませんでした。でも、とにかくユニークなバンドで、メンバーも個性豊かでいい奴らだったので、「学生の記念に1枚アルバムを作らないか」と彼らに言ったんです。アメリカンロックに憧れて音楽をやっていた彼らにはデビューの夢も、野心もなかったんですが、「じゃあ記念に…」と軽い気持ちで受けてくれて、アルバムを作ることにしたんです。とはいえレパートリーが10曲しかなかった。「勝手にシンドバッド」もなかった頃です!

マネージメント事務所も決まっていない状態でしたから、当時の代表的存在だった曲「女呼んでブギ」のカセットを持って事務所めぐりをしました。デビュー直前になって、なんとか興味を持ってくれたのが、今の事務所でもあるアミューズの大里洋吉さんでした。今でこそあれほど大きな事務所ですが、ちょうど設立したばかりでスタッフが4〜5人くらいだったんですよ。

 

デビュー後の反応はほとんどなかった

1978年6月25日に、まずはシングル「勝手にシンドバッド」でビクターからデビューしました。売り上げは大低迷でした。ちょうどその時代はピンクレディーなどのアイドル全盛期でしたし、ロックバンドといえばダウン・タウン・ブギウギ・バンドやRCサクセションでしたから、完全なる変化球だったわけです(笑)。 全国のビクターの営業所を回って歩いたのですが、「ライブハウスのロックバンドだよね」と社内ですらほとんど反応はありませんでした。

彼らの衣装は自前のジョギングシャツとパンツというのも異色でしたよね。予算もない上にまだ学生でしたし、彼らには自然体が一番! ということだったんです。

 

ベストテンの中継でドンチャン騒ぎ

デビューして2カ月後の8月25日にファーストアルバム「熱い胸さわぎ」を発売しました。その直後に、アミューズの大里さんが人気音楽番組「ザ・ベストテン」への出演を決めてきたんです。

スポットライトというコーナーだったのですが、まだ学生の彼らはスタジオに行ったら緊張してしまうんじゃないかということで、新宿ロフトというライブハウスから中継することにしました。この時に青学の学生をたくさん集めてサクラになってもらったんです。中継時間の前にお酒を振舞ってね。学生たちで大盛り上がりする中で「勝手にシンドバッド」を熱唱したんです。 そうしたら次の日にバーンとオーダーが来ました。そこから火がつきました。これが最大のきっかけでしたね。

 

変わらないメンバーたち

それから「ザ・ベストテン」10位にランキングされていくわけですが、それでも彼らはアルバイトをしていましたよ。かず坊(関口和之さん)は祐天寺の風呂なしのアパートに住んでいましたしね。

アルバム「熱い胸さわぎ」のジャケットは自前のシャツとジーパンという彼らの普段着なんですけど、なかなかそういうバンドってありませんでしたからね。そのまんまというか、彼らは本当に自然体なんです。

あれから間もなく40年になり、メンバーは60歳ですが、みんな変わってないですよ。本当に音楽が好きで楽しんでいた学生の頃から純粋で、わがままなども一切言わなかった。音楽的な魅力はもちろんですが、芸能界でここまで活躍し続けてきたのは彼らの人柄、人格によるところが大きいんです。それがないと芸能界で40年間ももたないんですよね。

そんな彼らに憧れて、ビクターやアミューズには新たなアーティストたちが集まってきました。「サザンが好きだ」というアーティストがどんどん成長して活躍していく、そんなサイクルができるんだなと感じています。

 

デビュー時の決意を貫いてきたサザンオールスターズ

デビューした時に彼らと決めたことがあるんです。一つは、「メジャー」と「マイナー」を両方できるアーティストを目指そうということです。テレビ出演やヒットチャートは大切ですが、同時に好きな音楽を追求しようと。 

もう一つは「サザンオールスターズ」というバンドの活動と、ソロ活動を両方しようということです。まさにビートルズなど、僕らがリスペクトしていたバンドがそうなんですが、当時の日本にはそういうバンドはいませんでしたね。個人的にも自由に興味のあることをしていくことも大切にしたかったんです。

再来年の2018年にデビュー40周年を迎えますが、振り返ってみると彼らはどちらも実現してきたと感じています。これからも踏襲していってほしいです。40年できたことは、さらに40年先までできるだろうと思います。彼らはいける! 期待しています。

左から高垣ともこ夫人、ショーでフラを踊ったスカイラー・カマカさん、高垣さん、関口和之さんの夫人久子さん

 

インタビューを終えて−−−
サザンオールスターズの関口和之さんの奥様久子さんとインタビュー会場に現れた高垣さん。これまで200くらいのバンドをデビューさせてきたというベテランであり、何といっても日本の音楽シーンにサザンオールスターズを紹介した当の本人でありながら、「私がサザンオールスターズに出会えたのは本当にラッキーでした。棚からぼた餅です」と謙虚に話し、「彼らに感謝しかないです」という。   

久子さんも知らなかったというデビュー秘話を語ってくれた中で、時々懐かしそうな笑顔を浮かべていた。そんな高垣さんとサザンオールスターズが40年間紡いできた絆は、これから40年先も続いていくのだろう。

 

(日刊サン 2016.6.20)

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