毎年4月20日は日本の郵政記念日です。1871年(明治4年)のこの日、飛脚制度に代わり郵便制度が始まったことにちなんで作られました。欧米の近代的な郵便制度が日本に入ってきたのは江戸末期、鎖国が終わった頃のことでした。現在の便利な郵便制度は中世ヨーロッパを起点とし、「郵便学」という学問が生まれるほど複雑な過程を経ながら調っていきました。今回のエキストラ特集では、12世紀イタリアの僧院飛脚から平成日本の「ふみカード」まで、郵便の歴史をざっと紐解いてみましょう。
世界の郵便史
紀元前
古代ペルシアの郵便制度「チャパル・カーネ」
紀元前25世紀頃、古代エジプトでは行政用の郵便システムが確立していました。ナイル川沿い約50kmごとに郵便局が置かれ、伝令がファラオが定めた法令などの書類を運んでいたといいます。紀元前6世紀の古代ペルシャ帝国(現在のトルコ周辺)では、郵便・情報伝達制度「チャパル・カーネ」が設置されていました。街の中心部には寺院や集会所に並ぶ形で郵便局が建てられ、チャパルと呼ばれる郵便配達人が郵便物を運んだと言われています。郵便局では疲労した馬やチャパルが交代し、1年中、昼夜を問わず郵便物が運ばれていました。ペルシア帝国は、ギリシャ、エジプト、中央アジアなどにサトラップと呼ばれる知事を派遣し、広大な領土を統治していました。首都スーサから地方、国境にまで巡らされた道路網を通り、チャパルたちは正確な情報やニュースを運んでいました。
パピルス文書をファラオに 届ける伝令
12世紀
ヨーロッパの僧院飛脚
12世紀初頭のイタリアでは、ヨーロッパ各地の教会や修道院を統率するため「モナスティック・ポスト」という僧院飛脚が置かれました。教皇庁と各僧院が僧侶を使者としてネットワークを形成するヒエラルキー的な意思伝達システムで、フランスのクリュニー修道院は飛脚制度を改革して中央集権を果しました。布教に欠かせない信頼を得るため一般市民の信書も運んだといいます。こうした教皇庁の通信システムは、商業ルネサンスを経て民間飛脚へ変わっていきました。
修道院長から文書を渡される修道士(12世紀)
16〜17世紀
民間飛脚の登場で商業取引システムが発展
1516年、ドイツ・イタリアの名門貴族出身のフランチェスコ・デ・タシス1世がヨーロッパ全域を対象とした商業飛脚による郵便事業を行う会社を設立しました。商用飛脚は、貿易決済をする銀行の間に「輸出手形を往来させるなど、各業者間の書類の交換を円滑にし、保険証券を交換することで海上保険を発達させました。1657年、イギリス政府は郵便を国営事業としました。
皇帝フレデリック3世から郵便憲章を受け取るフランチェスコ・デ・タシス1世
19世紀 近代郵便の基礎が確立
1840年、イギリス政府は均一料金の郵便制度を施行。世界最初の郵便切手「ペニー・ブラック」が発行されるなど、近代郵便の基礎が確立されました。
19世紀前半のイギリスの郵便局の様子 (The Post Office, Edward Villiers Rippingille, 1820)
世界初の郵便切手、ペニー・ブラック。図案はヴィクトリア女王
1874年には万国郵便条約が締結され、郵便に関する国際機関、万国郵便連合(Universal Postal Union)が発足しました。それまでは各国郵便事情に応じて郵便事業が行われていましたが、これにより、国際郵便料金の設定や、外国の郵便事業体同士のお金の決済などの問題が解決され、他国宛ての郵便がよりスムーズに送れるようになりました。
現在192カ国が加盟する万国郵便連合の旗。本部所在地はスイスのベルン
20世紀
アジア=太平洋郵便連合設立で国際郵便がより便利に
1962年、万国郵便連合憲章に基づき、アジア=太平洋郵便連合(Asian Pacific Postal Union)が設立されました。アジア・太平洋地域での郵便業務にありがちな諸問題の解決を図り、よりよいサービスを提供することが目的です。日本は1968年に加盟しました。1984年には、ファックスと郵便ネットワークを組み合わせた国際電子郵便「インテルポストがサービスを開始しましたが、インターネットの発達に伴い2003年に廃止されました。
1986年にギリシャで発行されたインテルポスト記念切手
日本の郵便史
日本の通信制度の始まりは、飛鳥時代に設けられた「大化の駅制」と言われています。「駅制 とは、古代日本で制定された律令制によって、中央政府と地方の間の連絡のために設けられた交通制度のこと。30里(約16km)ごとに駅が置かれ、官吏や使者に馬や食糧を提供しました。鎌倉時代には飛脚が登場し、戦国時代には大名の書状の送付などを担いました。江戸時代に入ると、幕府の整備により、武士や町人など一般民衆が利用できる飛脚屋や飛脚問屋などの制度が発達していきました。明治時代に入ると、飛脚は郵便に移行していきました。
飛 脚
貨物、信書、為替、金銭などの輸送を担ったする飛脚は、組織化された事業でした。飛鳥時代から平安時代の律令制の時代には、唐から伝わった駅制が使われていました。京を中心とした街道には駅(うまや)が設けられ、使者は駅に備えられた駅馬を乗り継いで移動しました。現在の速達のような制度もあり、これは「飛駅(ひえき)」と呼ばれていました。
律令制が崩壊すると駅制が廃れて、鎌倉時代には鎌倉飛脚、六波羅飛脚などが整えられ、早馬に乗った飛脚が京都の六波羅から鎌倉までの間を約72時間で結びました。また、駅制の駅に代わり、商業の発達によって各地に作られた宿が利用されるようになりました。 江戸時代、宿場や五街道などの交通基盤が整備されるに伴い、飛脚制度が整っていきました。幕府公用便の継飛脚、諸藩の大名飛脚、大名を含め、武家や町人も利用した飛脚屋、飛脚問屋などの制度が発達し、主要な通信手段として利用されていました。この時代の飛脚の移動手段は主に「馬と「駆け足でした。
江戸時代末期頃の飛脚の着色写真 (出典:日本史事典.com)
[ 飛脚の種類 ]
継飛脚
幕府の公用便で、老中、京都所司代、大坂城代、駿府城代、勘定奉行、道中奉行のみが使うことを許されていました。「御用」と書かれた札を持ち、2人1組で宿駅ごとに引き継ぎながら、「御状箱」に入れた書状や荷物を運びました。江戸時代初期に確立した継飛脚の制度は、各宿場の問屋に専用の飛脚を常駐させ、費用として幕府から宿駅に「継飛脚給米」を支給するというシステムでした。江戸から京都の間は、最速で片道約70時間で結んだと言われています。継飛脚の通行は最優先とされ、一般の往来が規制されたり、増水した大井川を渡ることなどが特別に許されていました。
大名飛脚
各藩が国許と江戸城の間を走らせた飛脚で、一般に藩の足軽か中間(下級武士)が務めていました。紀州・尾張両藩、雲州松江藩の「七里飛脚」、加賀藩の「江戸三度」が有名です。他の大名もこれを倣って飛脚を持ったものの、維持費が高いことなどから町飛脚に委託する藩が多くなっていきました。
飛脚問屋・飛脚屋
主に町人や武士が使っていた民営の飛脚。1663年に正式開業され、大坂・京都・江戸の三都を中心に発達しました。大坂では毎月2、12、22日に出発するため、「三度飛脚」とも呼ばれました。京都では町奉行が飛脚問屋16軒を「順番仲間」とし、毎夕順番に出発させるようにしました。飛脚問屋は、荷物や書状を運ぶほか、得意先に地震、火災、洪水など災害情報や、戦の情報を伝える役割も担いました。江戸時代中期には宿駅の交通量が増え、馬方と馬の交換「人馬継立などが混み合うようになり、到着が遅れることが多くなりました。そこで、1782年、幕府は江戸の飛脚問屋9軒に対し、宿駅での人馬継立を御定賃銭で優先的に使用する特権を与えました。この特権を使った飛脚問屋は、定飛脚(じょうびきゃく)問屋と呼ばれました。
町飛脚(まちびきゃく)
幕末に盛んだった江戸幕府内専門の飛脚で、状箱に鈴がついていたため「ちりんちりんの町飛脚」とも呼ばれました。江戸後期の三都の事物が記された『守貞謾稿』では、街美脚を次のように説明しています。「その扮、挟筥形の張り籠を渋墨に塗り、町飛脚および所名・家号を朱塗りに書きて、これを背にし、棒の一端前の方等に一風鈴を垂れて、往来呼ばずして衆人に報告す。これをもつて、下にも云へるごとく、ちりんちりんの町飛脚等異名す」
米飛脚
大坂堂島米会所の米相場の動向を地方に伝えることを専門とした飛脚。
通飛脚(とおしびきゃく)
出発点から目的地まで、一人で運ぶ飛脚。
明治以降の郵便史
1871(明治4)年 郵便制度施行。 日本初の郵便切手「竜文切手発行」
1875(明治8)年 外国郵便、郵便貯金、 郵便為替の取扱を開始
1877(明治10)年 万国郵便連合に加盟
1885(明治18)年 国際郵便の取扱を正式に開始
1892(明治25)年 小包郵便の取扱を開始
1921(大正10)年 国内の航空郵便を開始
1968(昭和43)年 郵便番号を実施
1970(昭和45)年 角型ポスト登場
1979(昭和54)年 毎月23日を「ふみの日」に制定。電話の自動化に伴い、郵便局が 行っていた電話交換業務が終了
1983(昭和58)年 「ふるさと小包」登場
1986(昭和61)年 鉄道輸送廃止
1989(平成元)年 ふみカード(プリペイドカード)発行
竜文切手
日本初の郵便切手、「竜文切手」は薄い和紙製で、目打や裏糊はありませんでした。約2cm四方の正方形で日本最小の切手でもあります。48文、100文、200文、500文の4種類があり、通貨改革の前に発行されたため、江戸時代の通貨単位がそのまま使われていました。48文という端数の額面は、江戸時代に100文以上の勘定を九六勘定とする慣習があった名残りで、「100文の半額」という意味だったのだそう。
[ 日本の郵便あれこれ ]
最初は黒色だったポスト
日本で郵便制度が開始された頃のポストの色は、赤ではなく黒でした。しかし、同時期に公衆便所が普及し始めたことから、黒い郵便箱に書かれている「便」の字を見た通行人が郵便箱を「垂便箱(たれべんばこ)と勘違いして用を足そうとしたり、夜は見えにくくなるなどの理由から、1901(明治34)年に赤色に変えられました。
明治5年のポスト「黒塗柱箱」
出典:郵政博物館
ふみカード
ふみカードは、郵便局で切手やはがきを購入する際や、郵便料金の支払いなどに使うことができたプリペイドカード。1989年から2003年まで販売されており、500円、1,000円、3,000円の3種類がありました。発売された当時は、テレホンカードやオレンジカードなどのプリペイドカードがブームだったこともあり、アニメのキャラクターやスポーツチームのデザイン、地域限定などさまざまな絵柄が登場。コレクションとしても人気があり、現在もネットオークションなどに出品されています。
<参考文献>
読売新聞大阪編集局『雑学新聞: 身のまわりの疑問を徹底取材!』
<参考URL>
2020年4月7日アクセス
・「日本人が知らない意外な雑学 昔の郵便ポストは黒かった?」(2016)
・画像出典 Public Domain, Wikipedia, Pixabay, Shutterstock 他
(日刊サン 2020.4.11)